ピンクヒスイ翡翠 リング 勾玉 倭の五王の時代が勾玉文明の全盛期
文献史的な「空白の4世紀」が過ぎて5世紀になると、南朝の宋の歴史書に倭国の名が載るようになる。421年から478年まで倭国王が5代にわたって入貢してきたとする記事で、倭国の王は漢字一文字の名前を名乗った。倭の五王「讃・珍・済・興・武」は通説は「仁徳・反正・允恭・安康・雄略」の5大王を指す。「讃を応神、珍を仁徳」にあてる説もある。倭の五王は朝鮮半島への進出に際して、征夷大将軍ならぬ征韓大将軍のお墨付きを宋王朝からもらいたがった。 ヒスイ バングル
漢が滅んで中国は朝鮮半島の植民地を失ってしまう。魏晋南北朝の混乱期に朝鮮半島では、おおむね今の北朝鮮の位置に、北方から南下してきた民族によって高句麗が建国される。(チベット高原の北の大草原地帯を挟んで高句麗とヨーロッパの黒海は地つづきで、ヒトもモノも行き来した。)
ついで半島を縦断する山脈の東側に新羅、西側に百済が建国され三巴の覇権争いが繰り広げられる。
ここに倭国も参戦していく。自国で鉄を生産できるようになるのは6世紀になってからのことなので、倭国としてはどうしても朝鮮半島の鉄が欲しい。朝鮮半島の南端に地歩を築いて軍隊を送り、新羅や百済相手に付いたり離れたりしながら鉄の交易を目指す。対価としてたくさんの日本翡翠製勾玉が輸出されていった。
(朝鮮半島における翡翠勾玉の出土については後述予定。当時の朝鮮半島は、釜山・プサン−下関を高速フェリーで3時間、というほど近くはなかったが、それでも大和朝廷にとっては佐渡島へ行くよりはるかに近い存在だった。) 翡翠 リング
同時にこの過程で倭国はその都度その都度、幾度にも別れて、朝鮮半島から多数の移民を受け入れ、
先端知識や技術を渡来民から学んだり彼らに役職を与えて近代化していった。
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